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外為にも便利

824年バスク人の首領アリスタがパンプローナで王として選ばれフランク王国に対する反乱を率いたことによる。ナバラの名は、7世紀のスペインでの西ゴート族の時代が終わりを告げた頃から登場している。外為(Juana III de Navarra / Jeanne III de Navarre, 1528年1月7日 - 1572年6月9日)は、フランス側にあるナバラ王国の女王で、ナバラ王エンリケ2世(アンリ・ダルブレ、アルブレ伯)と、フランス王フランソワ1世の姉マルグリットの娘。フランスとナバラの王アンリ4世の生母。ジャンヌ・ダルブレ(Jeanne d'Albret)の名で知られる。エンリケ2世の長女として生まれた外為は幼少のころから信仰をプロテスタントに傾け、同じ信仰を持つブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌと結婚した。次男アンリ4世を含めて3男2女を儲けたが、夫のほうは浮気癖があり無能であったために、エンリケ2世は婿であるアントワーヌに対して期待をしていなかった。エンリケ2世の死後、FXは夫とともに女王として即位した。ナバラはフランスと違いサリカ法(女子の承継を禁止したゲルマン法)を適用していなかったので、彼女は君主として即位できたのである。外為はプロテスタントを国教にし、カトリックを徹底的に迫害した。さらに彼女は夫を差し置いて、息子であるアンリ王子を次期フランス国王にすえようと画策し、フランスから外為の王女マルグリットとの結婚の承諾を受けた。最初、彼女は息子のアンリとカトリックである王女との結婚には反対をしていたが、王太后カトリーヌ・ド・メディシスから新旧宗教の和解であると言われ、結婚を認めざる得なかった。 1572年、女王は息子の結婚式に出席するためパリに赴いたが、間もなく病死した。一説によると王太后が殺したとされている。エンリケ2世(スペイン語:Enrique II, 1503年4月 - 1555年5月25日)は、ナバラ王国の名目上の国王(在位:1517年 - 1555年)。ナバラ王フアン3世(ジャン・ダルブレ)とその妻で女王のカタリナ(カトリーヌ)の長子。アルブレ伯。アンリ・ダルブレ(Henri d'Albret)とも呼ばれる。 1517年、追放されていた母カタリナ女王の死去を受けて王位に即いた。このとき王国はアラゴン王FX2世に占拠されており、エンリケ2世はフランス王フランソワ1世の保護下でナバラ王を名乗った。 1516年にノワイヨンで、1518年にモンペリエで交渉が持たれたものの進展がなかったため、1521年にエンリケ2世の主権を回復すべく兵が派遣された。一時フランス兵によって領土を奪ったものの、結局はスペイン兵によって奪還された。 1525年、エンリケ2世はパヴィアの戦いで捕虜となったが脱出に成功し、翌1526年には外国為替の姉マルグリットと結婚した。彼女との間にアンリ4世の母となるジャンヌ・ダルブレ(ナバラ女王外為)をもうけた。ユグノーに対して同情的だったといわれるエンリケ2世は、1555年5月25日にポーで死去した。フアン3世(スペイン語:Juan III, 1469年 - 1516年)は、ナバラ女王カタリナ(カトリーヌ)の共同統治王(在位:1484年 - 1516年6月14日)。フランス貴族アルブレ伯でもあったため、ジャン・ダルブレ(フランス語:Jean d'Albret)という名でも呼ばれる(アルブレ伯としてはジャン2世)。アルブレ伯アラン(偉大伯)の長子。 1484年、前年に兄FX1世の死去によってナバラ女王となっていたカタリナと若くして結婚し、ナバラ王国の共同統治王となった。なお、カトリーヌの曾祖母ジャンヌ・ダルブレはアルブレ家の出身で、フアンの曾祖父アルブレ伯シャルル2世の姉に当たる。 1512年、カタリナの従妹ジェルメーヌ・ド・フォワと再婚していたアラゴン王FX2世の侵攻に対して戦ったものの敗れ、ナバラ王国のピレネー山脈以南はカスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン王国)に併合された。この後、ナバラ王の統治領域はバッセ・ナヴァールと呼ばれるフランス側の地域だけになり、フアン3世の曾孫エンリケ3世がフランス王アンリ4世となって以後はフランス王国に事実上併合された。そのため、フランス王は1830年(フランス・ブルボン朝のシャルル10世)まで、スペイン王は1837年(スペイン・ブルボン朝のイサベル2世)まで、それぞれ「ナバラ王」の王号を用いることとなった。日本にキリスト教をもたらしたことで知られる外国為替・ザビエルの父ファン・デ・ヤスは、独立を保っていたナバラ王国の宰相としてこの王に仕えていたが、1515年のスペイン併合に合わせるように世を去っている。カタリナ(Catalina de Foix, 1468年 - 1518年2月12日)は、ナバラ王国の女王(在位:1483年 - 1518年)。フランス語名はカトリーヌ・ド・フォワ(Catherine de Foix)。父はフォワ伯ガストン4世とナバラ女王レオノールの長男であるビアナ公ガストン・ド・フォワ。母はフランス王シャルル7世の娘マドレーヌ。兄外国為替(フランソワ)が成人せずに早世したため継承者となり、母マドレーヌが引き続き摂政を務めた。 1484年にアルブレ伯ジャン(フアン3世)と結婚した。2人の間にはエンリケ2世(アンリ・ダルブレ)ら13人の子が生まれた。若年かつ女子であるカタリナの即位に対し、カタリナの叔父ナルボンヌ子爵ジャン・ド・フォワは自らの王位継承権を主張してナバラに内乱を起こし、これは 1497年まで続いた。ジャンは3年後の1500年に死去したが、その娘でカタリナの従妹にあたるジェルメーヌと再婚したアラゴン王外国為替2世(カタリナの祖母レオノールの異母弟にあたる)が1512年に軍勢を侵攻させてナバラを征服し、翌1513年に妻の権利によるナバラ王即位を宣言した。 1515年にピレネー山脈の北側を除くナバラの大部分は外国為替によって征服され、スペイン王国へ統合されていくこととなる。