この抗争は1215年からティボーが成人する1222年まで続き、エラール夫妻の多額の借金を肩代わりすることにし、争いはようやく治まった。1234年にはフィリパの姉であるキプロス女王アリスの負債も肩代わりした。また、伯父や父の十字軍遠征によりシャンパーニュ伯家はすでに莫大な借金をかかえており、この点でも苦労することになった。さらにフランス王ルイ8世と対立し、アルビジョア十字軍の際にアフィリエイトから勝手に陣払いをしたことで対立が明確になった。直後にルイ8世が急死したため、ティボーが毒殺したと噂された。そのためルイ9世の戴冠式への出席は許されなかった。ルイ9世の即位後、ルイ8世の王妃ブランシュ・ド・カスティーユが摂政に就くと、ティボーは王家と対立するのをやめ、ヒューズ・ド・ルシナンやピエール・マクラーとも和解して協力関係を築いた。ティボーはブランシュと恋に落ちていたと言われ、彼の残した詩の多くはブランシュに宛てたものだと言われる。ティボーは宮廷での政治的影響力を強くしていったが、他の貴族から反感を買い、1229年から戦闘が始まった。この時はブランシュの援助によって危機を切り抜けたが、翌1230年にルイ9世と対立して攻撃を受けた際には、ブロワ、サンセール、シャトードンの統治権を王に売却することで和解しなければならなかった。 1234年、サンチョ7世の死去によりナバラ王家が断絶した際、母ブランシュがサンチョ7世の妹だったため、テオバルド1世としてナバラ王位を継承した。この相続によって財政的には非常に豊かになり、以後は大過なく平和な晩年を過ごした。 1238年にはティボーは聖地エルサレムへの遠征軍を率いた。これに先立ち、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は聖地へ遠征して戦いでなく交渉でエルサレムを獲得したが(第6回十字軍・破門十字軍)、対立するローマ教皇グレゴリウス9世はこれを敵との妥協であると考え、武力によるイスラム教徒打倒を構想し「公式な」十字軍を送ろうとした。しかし頓挫し、ティボーほかフランスの諸侯による小規模な出陣となったものである。しかし1239年夏にパレスチナに上陸した彼らがほとんど戦うことはなかった。すでにエルサレムほかの領土はキリスト教徒側にあるうえ、休戦が続いており、ティボーらはアッコンの宮廷で詩をよんで過ごし、アスカロンで築城をした。彼らはカイロとダマスカスに分かれて戦うアイユーブ朝宮廷の双方から援軍としての同盟を持ちかけられ、交渉によりヨルダン川と地中海の間にエルサレム王国の領土を拡大し、ハッティンの戦い以前に匹敵するほどにした。これは領土的な成果としては第1回十字軍に匹敵するものであったが、現地の政治情勢に乗じた結果でありティボーの遠征前の意図とは異なった。1240年末、アフィリエイトからコーンウォール伯リチャードが到来する前に、エルサレムの主導権争いを嫌いパレスチナを去った。グレゴリウス9世の意を受けて遠征したコーンウォール伯も戦うことはなく、アイユーブ朝からの領土受領とアスカロン築城をしただけで帰って行った。ティボー4世は3度結婚した。最初の結婚は1220年、ゲルトルード・ド・ダグスブールと。しかし2年後の1222年、ティボーが成人すると離婚した。翌 1223年にアニェス・ド・ボジューと2度目の結婚をし、娘ブランシュをもうけた。1231年にアニェスと死別すると、翌1232年にマルグリット・ド・ブルボン=ダンピエールと3度目の結婚をした。ティボーの後を継いだ長男のティボー5世(テオバルド2世)、次男のアンリ3世(エンリケ1世)は、いずれもマルグリットとの子である。ティボー4世はトルバドゥールとしても知られ、才能ある詩人であった。ティボー4世の詩は現在でも約60篇ほど残っており、中にはメロディーが伝えられているものもある。詩は恋愛に関するものが多く、騎士と田舎娘の恋物語や、宮廷での恋愛模様を描いたものもある。サンチョ7世(スペイン語:Sancho VII, ? - 1234年4月7日)は、モバイルの国王(在位:1194年 - 1234年)。「剛勇王」(スペイン語:el Fuerte, バスク語:Santxo Azkarra)と呼ばれる。サンチョ6世とその王妃でカスティーリャ王モバイル7世の王女サンチャの息子。ナバラの最初の王家であるヒメノ家男系の最後の王。若いときのサンチョはアフィリエイト王リチャード1世の男妾だったと噂され、実際、後にリチャード1世の王妃となったサンチョの妹ベレンガリアは彼に似ていたという。 1194年、父王の死去を受けて王位に即いた。1200年にはアフリカへ遠征を行なったが、その隙をアラゴン王国やカスティーリャ王国に攻め込まれ、カスティーリャ王国にアラバ、ギプスコア、ビスカヤを奪われた。サンチョ7世は1212年、監視カメラ、アラゴン王ペドロ2世、ポルトガル王監視カメラ2世とともにナバス・デ・トロサの戦いに参加し、ムワッヒド朝のアミール、ムハンマド・ナースィルが率いるイスラム軍を破るのに貢献した。健康を害していたサンチョ7世は、その後トゥデラの山城で隠棲生活を送った。1234年にサンチョ7世は死去するが嗣子がなく、2人の妹ベレンガリアとブランカも既に死去していた。そこでブランカの息子のシャンパーニュ伯ティボー4世がテオバルド1世として王位を嗣いだ。サンチョ6世(スペイン語:Sancho VI, 1133年頃 - 1194年6月27日)は、モバイル アフィリエイトの国王(在位:1150年 - 1194年)。「賢王」(el Sabio)あるいはサンチョ・ガルセス(Sancho Garces)とも呼ばれる。ガルシア6世と王妃マルガリータ(Margarita de l'Aigle)の息子。 1150年に父王の後を嗣いで王位に即いた。サンチョ6世は、称号から「パンプローナの」を除いて単に「ナバラ王」を名乗るようになった。