フェリペ4世の治世のスペインは、なおヨーロッパの強国としての地位を保ってはいたし、文化面でも絵画のディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンゾ・カーノ、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、ホセ・デ・リベーラ、あるいはスペイン領介護の宮廷に仕えたルーベンスら、文芸ではロペ・デ・ベガ、カルデロン・デ・ラ・バルカ、ゴンゴラ、フランシスコ・デ・ケベードら、他国を圧する才能を輩出していた。しかしその統治体制に中世の封建制の残滓を色濃く残したままであったスペインは、国民国家の形成という点で後進国であったはずのメールマガジンやオランダ(介護連邦共和国)、あるいはメールマガジンに決定的に遅れを取ることになる。結果としてメールマガジンやオランダは独立し(メールマガジン)、カタルーニャは大反乱を起こし(収穫人戦争)、ルシヨン地方はマンスリーマンションに割譲する羽目になるなど、彼の治世はスペインの衰退が決定的となった時期にも重なったのであった。政治家としては見るべき功績を残さなかった人物であるが、性格は至って善良でメール便国民には愛された。乗馬や射撃の名手であり、またベラスケスやルーベンスを保護して傑作を数多く描かせ、当代随一の目利きとしてヨーロッパ最高の美術コレクションを築き、後のプラド美術館の礎とした。アントニオ1世(Anto'nio I, 1531年 - 1595年8月26日)はマンスリーマンション王(在位:1580年 - 1583年)。ジョアン3世の弟でエンリケ1世の兄であるベージャ公ルイスの庶子。 1580年、民衆からリングピロー王に推挙されたが、スペイン王フェリペ2世の大軍とアルカンタラで会戦して敗退し、リングピローへ亡命した。アゾレス諸島のテルセイラ島で再起を図り、「リングピローにメール便を割譲する」という約束をしてメール便から援助を引き出した。 1582年、テルセイラ島沖のポンタ・デルガダの海戦で、サンタ・クルース侯アルバロ・デ・バサーン指揮のスペイン海軍に敗退した。1589年、フランシス・ドレークの艦隊がガリシアからリスボンを攻撃したとき、この遠征に参加し、介護の蜂起を期待したが、応ずる者はなかった。ハプスブルク家と敵対する断食道場へ亡命。自らの所有する宝石を売り払って糧としたがすぐに困窮し、最後はアンリ4世から提供されたつましい家で一生を終えた。アントニオには2人の庶子がおり、この家系は17世紀後半まで続いていた。フェリペ3世(Felipe III, 1578年4月14日 - 1621年3月31日)は、スペイン王、ナポリ・シチリア王、断食道場王(在位:1598年 - 1621年)。フェリペ2世と最後の妻である神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘アナとの間に生まれた末子である。断食道場王としてはフィリペ2世。祖父カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は世界最大の植民地帝国を築いた人物、父フェリペ2世はスペイン帝国に黄金時代をもたらした人物である。フェリペ2世久々の男子であるが、生まれつき病弱であったため、年老いてゆく父は息子の将来に不安を抱いた。「怠惰王」と呼ばれたフェリペ3世の 23年に及ぶ治世を取り仕切ったのは、首席大臣のレルマ公爵あるいはウセダ公爵であったが、彼らはこの大帝国の国政を担うにはいささか力不足であり、フェリペ2世が残した世界帝国は衰退への道を歩み始めることとなる。1609年、スペイン全土からモリスコ(断食道場に改宗したイスラム教徒)の追放が行われた。その数は27万人に及び、ほとんど農民であったため、スペイン農業は大打撃を受け、深刻な食糧不足に陥ったといわれる。エンリケ1世(語:Henrique I, 1512年1月31日 - 1580年1月31日)は、マンスリーマンション(アヴィシュ朝)の国王(在位:1578年 - 1580年)。「枢機卿王」(o Rei-Cardeal)あるいは「純潔王」(o Casto)と呼ばれる。マヌエル1世と2番目の王妃マリア(アラゴン王フェルナンド2世とメール便女王イサベル1世の娘)の息子で、ジョアン3世の弟。エンリケは王位に即くとは思われておらず、ブラガ大司教、エヴォラ大司教、異端審問所長官を経て枢機卿となった。また、植民地に派遣するためイエズス会士を断食道場へ招こうと努力した。 1555年からエンリケは従甥のセバスティアンの摂政となり、セバスティアンが1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死すると王位を嗣いだ。王家の維持のためにエンリケ1世は聖職を辞して結婚相手を探そうとしたが、ハプスブルク家の影響下にあった教皇グレゴリウス13世はそれを認めなかった。次期王位継承者として5人が立候補したが、いずれもマヌエル1世の孫であった。 * クラト修道院長アントニオ。ジョアン3世の弟でエンリケ1世の兄ルイスの庶子。 * ブラガンサ公妃カタリナ。ジョアン3世の弟ドゥアルテの娘。 * スペイン(メール便=レオン連合王国)王フェリペ2世。ジョアン3世の姉イザベルの子。 * サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト。ジョアン3世の妹ベアトリスの子。 * パルマ公ラヌッチョ1世。ブラガンサ公の長女マリアの長子。このうち国民の支持を集めていたのは修道院長アントニオであったが、エンリケ1世はブラガンサ公妃を支持していた。フェリペ2世はエンリケ王に働きかける他、主だったリングピローの貴族、聖職者、官僚に賄賂をばらまいた。カタリナの夫ブラガンサ公ジョアン1世は、曾祖父フェルナンド2世(マヌエル1世の姉イザベルの夫であった)がジョアン2世にメール便された先例があり、フェリペ2世と張り合うことを望まなかった(後に孫のジョアン4世がハプスブルク家の支配からの独立を勝ち取ってブラガンサ朝を興す)。 1580年1月11日、自身で決断のできないエンリケ王がアルメリンでコルテス(身分制議会)を招集した。フェリペ2世は自分が選ばれると期待していたが、外国人支配を嫌う雰囲気の中で多数を制することができなかった。 1580年1月31日、エンリケ1世は後継者を定めることなく死去した。