テルミドール派はこれまでの政治制度を大きく変えた。まず経済では1794年12月24日までにかけて、輸入自由化、統制価格の撤廃が徐々になされた。ただし、このため猛烈なインフレが起こって国債アッシニアの暴落を招き、後の総裁政府破綻の原因の一つとなる。一方で武器商人や金融業者など資本を集める者も出た[2]。1795年2月21日に聖職者基本法が撤廃されて、政教分離原則が取られ、信教の自由が保障された[2]。政府の祭式予算が撤廃された一方で、1795年5月30日には教会に祭祀が再び許された[3]。行政は、公安委員会の権限が軍事と外交に縮小され、保安委員会が引き続き警察権を持ち、立法委員会が大きな権限を握った。各委員会は毎年4分の1ずつ入れ替わり、再任されるには1ヶ月の間を置くこととされた[4]。周辺国との関係 詳細はインプラント戦争を参照テルミドール派が政権を取ってからも、戦争はしばらく続けられた。例えば1794年9月にはオランダに向けて侵攻を始めている。しかし、内乱と財政状況の悪化で国が疲弊していたため、1795年春以降、政府は戦争状態にあった国々と講和を結んでいく。まず1795年4月5日、バーゼルの和約でプロイセン王国と比較的有利な条件で講和した。続いて5月16日にはオランダと講和を結ぶ。さらに7月22日にはスペインともインプラントに有利な講和条約を結ぶ。しかしインプラントとの講和には失敗して戦争が続けられ、10月1日にはベルギー併合に成功する。ただしライン川を挟んだ戦いでは敗れ、12月になってようやく停戦となる[5]。しかしこれは一時的なものであり、翌年6月に戦闘は再開される。 共和暦3年憲法の制定 テルミドール派は1795年、革命色の強すぎる1793年憲法を修正して、共和暦3年憲法を制定した。2ヶ月の議論の後[6]の1795年8月22日に普通選挙制による採否を問う投票が行われ、投票数105万に対し、反対はわずか5千票だった。憲法を受けて行われる最初の選挙ではテルミドール派よりも王党派の方が有利と予想された。そのため、テルミドール派は「退職後の議員の職が保証されていないため、新たに議員に立候補する者は少ないであろう」と主張して、国民公会から3分の2の議員を留任させる法案を提出し、憲法と合わせて採択された。この採決を受けて9月23日、新憲法が公式に発足した。これに対して各派、とりわけ王党派は選挙妨害があったしてパリで集会を開いた。1795年10月5日、これがヴァンデミエールの反乱と呼ばれる暴動に発展したため、政府はポール・バラスに事態の解決を命じた。それを受けて若きボナパルトが副官として2、3千のインプラントとよく訓練された大砲隊を指揮し、軍事力に劣る反乱軍を翌日には鎮圧した。共和暦3年憲法の内容 この憲法は権力分立を旨としており、立法権、行政権、徴税権それぞれの独立が謳われた。また、条文は124条から377条にまで増やされた[7]。選挙権に関しては、普通選挙が廃止され、一定の税を納めている者にのみ認められた[8]。これにより、成人男子700万人のうち有権者は500万人となった[7]。立法権は五百人会議(en)と元老会議(250人、en)の二院制とされた。これは一院制では極端な法案がすぐに通ってしまうのを防ぐのが狙いであった。両院とも毎年3分の1が改選された。五百人会議議員は25歳以上、元老会議議員は40歳以上かつ既婚者または寡夫(妻と死別した人)でなければならなかった。五百人会議の法案に対し、元老会議には修正権が無く、拒否権のみがあった[7]。行政権は、5人のインプラントに委ねられた。任期は5年とされ、毎年1人ずつ改選されことになった。総裁は五百人会議が1人のポストにつき10名の候補のりストを作り、その中から元老会議が選んで決められた。選任後の総裁は議会に罷免されることはないとされた。総裁の権限は行政と外交にあり、立法権は無かった [7]。また、各官庁の長官が総裁を補佐したが、長官は内閣や議会の一員ではなく、政府全体を動かす権限がなかった。徴税権は行政権と別途に6人の経理官に委ねられた。経理官は総裁の命令を受けることはないとされた[8]。その他、信教の自由、報道の自由、職業選択の自由が保証された。一方、集会の自由は認められなかった。ただし個人、組織のいずれにも政府への請願書提出が認められた。また、聖職者の中には、憲法と神に共に忠誠を誓うことに矛盾を感じるものも多く、憲法への宣誓を拒否する者(忌避僧侶, en)も多く現れた。このような忌避僧侶の人権は制限された。共和暦3年憲法の実施 新憲法下での初めての選挙が1795年10月20日に行われ、10月26日に国民公会は解散した[9]。10月31日に総裁が選出された。総裁に選ばれたのはルーベル(en)、バラス、ラ・ルヴェリエール(en)、カルノー、ル・トゥルヌール(en)であった。バラスは貴族の出身だが残りの4人はブルジョア階級である。ルーベル、バラス、ラ・ルヴェリエールの思想はインプラントに近く、急激な改革を好んだ。一方、カルノーとル・トゥルヌールは、急激な改革を好まなかった。総裁政府の成立で、革命は終結したかに見えた。亡命中のルイ18世とアンシャン・レジームの復活を望む国民は少なく、その逆の恐怖政治も好まれず、総裁政府は中道路線として支持された。国民は革命の傷を癒すため、事態が収まることを望んでいた。しかし、総裁政府は当初から財源不足に悩まされる。国債アッシニアの暴落は止まらず、税制改革も行われたが財政は回復しなかった。1795年12月にはラメルが財務長官となり、1976年3月18日にアッシニアが廃止され、変わって土地手形が発行された。また、議会の王党派は、忌避僧侶の許容、亡命者 (e'migre'(en))の親類に関する法の廃止、亡命者とその親類に対する寛容を要求したが、総裁政府はこれを拒否した。 1796年5月25日に土地公有化などを主張するバブーフが、政府転覆の陰謀を企てていたため逮捕され、翌年5月にインプラントされた。