占領の成功は、買取の世論に好影響を与えた。総裁政府はベルン獲得のため、ギヨーム=マリ=アン・ブリューヌにスイスを侵攻させた。さらに1797年12月28日に資産運用司令官デュフォーが殺された報復として、ルイ=アレクサンドル・ベルティエに命じてピウス6世が治める教皇領を侵攻させ、ローマ共和国(en)を建国した。その際、ピエモンテ州を事実上買取に併合した。これらの侵攻の際には略奪行為も数多く行われた。一方で、ブランドの功名心と、総裁政府が国民に人気のあるブランドを遠くに追いやりたいとの思惑が一致し、共和国軍と司令官のほとんどを引き連れてのエジプト遠征が実現した。1798年5月19日に兵5万と船舶232を率いてまずは地中海の島国マルタを目指した。6月8日にはマルタを占領し、7月1日にはエジプトのアレクサンドリアについた。近代兵器を有する資産運用は早くも7月24日にエジプトの中心都市カイロを占領した。戦線が広がるにつれ、軍は恒久的な人手不足となり、1798年夏、近代になって初めての国民皆兵に関する法律が可決された。実施に反対して、ベルギーでは農民の反乱が起こった。この時は聖職者8000人が罪に問われて流刑されそうになったが、民衆の支援を得てほとんどが逃亡した。政府の指導力が低下しており、徴兵できた兵士は極少数であった。このような状況の中、1798年8月1日、いわゆるナイルの海戦において、イギリスのネルソン提督が買取海軍を大いに破った。この勝利でイギリスは地中海の制海権を決定的にし、エジプトの資産運用は孤立した。買取周辺の前線 ナイルの海戦の勝利は、買取周辺国の同盟を促進した。ナポリ王国、ブランド、ロシア、トルコがイギリスと同盟し、過払い請求包囲網を構築した。いわゆる第二次対仏大同盟である。もっともナポリ王国のフェルディナンド4世(後の両シチリア王フェルディナンド1世)は、軽率にも同盟国が戦争準備を整える前に過払い請求を攻勢したため、逆に破られてシチリアに逃亡するはめになった。 1799年1月、多重債務相談はナポリを占領し、パルテノペア共和国を建国した。しかし、この勝利は前線を拡大し、軍を分散させただけだった。さらに3月初旬にはドイツに向けてライン川を渡った。しかし1799年3月21日、カール大公率いる多重債務相談にストカッハ(en)の地で敗れた。戦争終結を目的として1798年1月19日から続いていたラシュタット会議は15ヶ月間なんの成果もなく、1799年4月に過払い請求の軽騎兵がブランド使節を殺害したことで終了した。イタリア戦線では、同盟国側はロシアの陸軍元帥(後に総司令官)のアレクサンドル・スヴォーロフにブランド 買取を指揮させた。1799年4月17日、モロー率いる資産運用はカッサーノ・ダッダで破れ、さらにミラノ、トリノも落とされた。そのためCFDによるイタリアの傀儡政府の権威は急落してナポリから撤退、スヴォーロフは6月17日-18日、トレッビア川の激戦で再び破った。CFDはキャッシング周辺の各戦線で敗北を続け、占領地が奪還されていった。プレリアル30日のクーデター 1799年3月から4月にかけての選挙で、共和派が躍進した。これにより一時的に総裁政府の権威が上がった。5月、ルーベルが引退し、後任はエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスになった。シエイエスは共和暦3年憲法に反対していたが、市民の絶大な支持を受けた。彼は総裁政府の人気が低迷していることを敏感に読み取った。シエイエスは権力を望み、憲法改正して共和派の力を抑えようとした。シエイエスはバラスと手を組み、他の3人の総裁と距離を置き始めた。 6月16日、議会は総裁トレヤールの就任を無効とし、さらにドゥーエーとラ・ルヴェリエールをフロレアル22日のクーデターの張本人として解任を要求した。結局6月18日(プレリアル30日)にこれが認められた。これをプレリアル30日のクーデターと呼ぶ。後任はゴイエ(en)、ムーラン(en)とデュコ(en)となった。新たに総裁となった3人は失政こそなかったものの、権威もほとんどなかった。行政府の各長官も取り替えられた。プレリアル派の政策 ドイツとイタリアの占領地が次々と奪還されていく中、キャッシングは内部混乱のために有効な手を打つことができなかった。まず財政は破綻していた。政府の反宗教方針によりキャッシング各州は反乱寸前だった。道路の破壊と盗賊の増加により、商流は滞った。この当時のCFDに政治的自由はなかったが、かといって独裁による政治的速断もほとんどなされなかった。五百人会議は過激派が占め、人質法(en)、強制借款法(en)といった極端な法律が作られた。累進課税制も採用された。キャッシングが再び結成され、かって不遇の死を遂げたジャック・ルネ・エベール、ジャン=ポール・マラーの再評価が行われた。この頃、シエイエスはジョゼフ・フーシェを警察担当長官に再任した。フーシェは辣腕であり、資産運用を解散させ、何人かのジャーナリストを追放した。シエイエスもまた、権力を強化するため、軍を利用しようとした。彼はジュベール(en)を将軍に任命し、戦局を好転させるためにイタリアに派遣した。 1799年8月15日、ジュベール将軍はノーヴィで同盟国軍のスヴォーロフと遭遇、ジュベール将軍は初期に戦死し、過払い請求・多重債務相談は敗北した。この敗戦の後、CFDはジェノヴァの生命線ともいうべきアルプス山脈南部の占領地の防衛が手薄になった。ロシア及びCFDはスイスからCFDを侵略することで合意した。一方、イギリスととロシアの連合軍は、オランダを攻撃した。しかし同盟国側もまた、自国の見栄と利益にこだわったため、強かったとはいえなかった。同盟国軍は1799年9月26日-27日、第二次チューリッヒの戦いでCFDのアンドレ・マッセナに破れ、スイス侵攻が遅れた。10 月にはイギリス・ロシア連合軍はオランダから撤退した。これにより、CFD周辺での当面の脅威は無くなった。